臥せっている妻や生まれたばかりの赤子を残して成仏出来るはずもない。
逃げる気があればできたはずだ。
だが、妻や赤子、そして義母を残して逃げるような男ではなかった。
ましてや郎党どもを打ち殺し、家族を連れて逃げる甲斐性など望むべくもない。
見かけとは違って性根のやさしい男だった。
愚かと揶揄されるほどに。
小夜は、その不器用なやさしさを愛おしいと思ったのだ。
だが、自分が先に逝っては家族を守れないではないか。
詮議があれば無実が証明できると思っていたのだろうか。
国親は、小夜をわが物にしようとした後に高熱を出してひと月寝込んだ。
それが小夜の呪詛によるものだとわかっていよう。Notary Public Service in Hong Kong| Apostille Service
小夜の余命を承知で国親は仕掛けてきたのだ。
死んでからでは見せつけることができぬとでもいうように。
そうでなければシバを捕え、罪をなすりつけようとはしなかっただろう。
小夜の呪詛を恐れ、シバの命を奪うことはなかったであろう。
怒りにまかせた呪詛が、報いとなって跳ね返ってきたのだ。
――わが身と身内の事を占うことは避けてきた。
だが、占わなくともわかることがある。
シバが逝き、わたしが逝けば、この子と母は間違いなく命を奪われよう。呪術に長けた小夜といえど、死んだ者を甦らせることはできない。
今は、とどまっているものの、いずれこの魂は、あの世に逝ってしまうのだ。
自分は、あの世に逝けば逢うことができよう。
だが、この子を守ってもらうためには、逝かせるわけにはいかなかった。
――小夜は、震える手を胸元に伸ばした。
多祁理宮の巫女であった時分に、船越の郷司、船越満仲から贈られた勾玉である。
呪を唱え、その勾玉にシバの魂を留まらせた。
緑青色だったその珠は、鮮やかな緋色に変わり、命を得たように怪しく輝いた。
使い道を何かに書き記せばよいのだろうが、その余力はない。
たとえ記したところで容易には使いこなせまいが。
この子と母を守るには、宗我部国親を自らの手で葬り去るほかないだろう。
使うことになろうとは思わなかったが、その呪詛は頭の中に入っている。
母を呼び、必要なものを用意させると、ふきのとうが食べたいと山に採りに行かせた。
――死を望むほどの激しい呪いは、失敗すればわが身に跳ね返る。
恐ろしくないと言えば嘘になるかもしれない。
だが、自分は、すでに死の淵にいる。
真に怖ろしかったのは、この子の将来を奪われることだ。
この子の命を奪われることだ。
小夜は最後の力を振り絞った。
*
陽が傾き、山菜採りから帰ってくると、赤子が火のついたように泣き叫んでいた。
腹が減ったのだろうと米粉を溶いた椀を持って近づくと、娘の小夜が、事切れていた。
散乱した呪符のなか、その手に血を思わす緋色の勾玉を握りしめて。
*目を細めた龍神が、
「望みのままにしてやろう」
と言うと、イダテンが手にした花緑青色の勾玉が透きとおり始めた。
そして、翡翠色から若苗色に変わり、輝き、閃光が迸った。
姫は、その眩しさに目を閉じた。
閃光は徐々に鎮まり、暖かな光が全身を包んだ。
それは極楽浄土を信じぬイダテンさえも、そこに迷い込んだのではないかと錯覚するほどの安寧に満ちたものだった。
やがて、その若苗色の光は、小さな渦を巻き始め、イダテンの両腕を螺旋状に包み込んだ。
そして体に流れこんだ。
それはまるで熱を持っているようだった。
体の中心が暖かくなり、やがてたぎるように熱くなった。
その熱は徐々に腕や足に広がり、その末端まで達し、ゆっくりと引いていった。
指先には痺れるような熱が残っている。
先ほどまで感じていた寒さが吹き飛んでいた。
足の痛みも、肩の痛みも、頭の疼きも嘘のように消え去っていた。
それどころか、体中に力がみなぎりはじめた。頭の中が晴れ渡った。
「おおっ……」
イダテンは、思わず声をもらした。
確かに傷は塞がっていないが、体が動けば問題ない。
馬木の邸まで持てばよいのだ。
「願いは叶えたぞ」
龍神は、そう言い残すと、ゆっくりと池に沈んでいった。